時の過ぎゆくままに、その時その時の感じたことをブログにしています。
強者どもの夢のあと
今年田舎に帰った時に絶対行きたいと思っていたところがあった。
中学1年のときに吹奏楽部の合宿で行った黒姫高原のロッジあとである。

ここには過去2回行っている。中学卒業後に最初に行ったのは高校1年の時だったろうか。
当時まだ「柏原」と言った「黒姫高原」駅からバスを乗り継いで行った気がする。
すでに秋の気配の濃いそこは、中学の時と変わらずそのままであった。

そのあとに行ったのは、社会人になり車を持つようになってからだった。
かつてのロッジは個人所有の別荘になっており、同期のA君が当時小熊と遭遇した藪は切り開かれてスキー場の駐車場に変わっていた。
毎朝ランニングとラジオ体操をしたシャレー黒姫は取り壊しの最中だった。
ただ、ロッジから椅子を持ち出して戸外で練習した白樺林はそのままで、だれかが落ちそうになった古井戸あともなんとなく場所が確認出来た。

今回は当時から実に36年経っている。どんな風になっているのか?
まずシャレー黒姫は新しい建物に変わっていた。みんなでラジオ体操をした駐車場は昔と同じだった。
付近に別荘が増えて、ロッジの入り口の道路がわからなくなっていたが、勘で進んでいくとあったあった。ロッジはかなりくたびれていたが、まだ個人の別荘として立っていた。
しかし、当時砂利道だったロッジまでの道路の両側にはきれいな別荘が建ち並び、まるで別の地に来たような感覚になった。

白樺林はそのままだったが、戸外練習したあたりには大きな別荘が建っていて面影が変わっていた。
ああ、この地で1週間「輝く銀嶺」と「ダンスと間奏曲」を朝から晩まで練習したのだ。
譜面台メトロノーム、バスクラを吹きながらパセージを教えてくれたKさん、ベルを固定されてのしごき練習。昨日のように思い出された。

ヒグラシの声に当時の顧問の山本先生の言葉を思い出しながら、その地をあとにした。
「なんでそんなにタンギングが下手なんだ。あのヒグラシのように吹け!」
Posted by : 春野おがわ | 思い出 | 03:49 | comments(0) | -| - |
高校同期会 in 高田
歩く人もまばらな昼下がりの雁木通りを歩いて会場のホテルに向かう。
エレベータを下りると先に着いていた何人かが「うおー!」と手を挙げる。

卒業30周年記念のクラス合同同期会に参加する。
半分以上は本当に卒業以来の再開である。
いくつかのテーブルに分かれるが、出席名簿をみながら一生懸命思い出す。
一生懸命考えても顔と名前が一致しないやつもいるから大変だ。

こちらの地方ではテーブルの席はあってなきがごとしだ。宴ががはじまるや入り乱れて昔話に話しが咲く。
しばらくすると吹奏楽部の部長だったI君がやってくる。娘さんが二人だそうだ。
二人とも吹奏楽をやっていたそうで上の娘さんは結婚し、子供が生まれたとのこと。I君はなんと40代で「おじいさん」になってしまったのだ。

そうかと思うとスピーチした某君は、結婚が遅くて今子供が4才と1才との事。
結構子供がまだ小学生のやつもいて少しは安心。

3時スタートの一次会はあっという間に終わり、5時過ぎから二次会に突入。この時点でも太陽はまだ高く、お店に他の客はいない。
もう二次会に至っては全く席など意味を持たない。畳の上にグラスを置き、車座になって談笑が広がる。
進学コースだった我々の同期に女子生徒は少なかった。その少なかった女性陣の車座に加わる。
みんなから「春野君は、まじめで悪さもせず、あんまり話しもしなかったけど、今話すとおもしろいね」と言われる。
それにまた横にいたS君がおもしろおかしく脚色をするので、だんだんとこの車座が大きくなって行く。

あっという間の二次会も終わり、今回の幹事が次期幹事を指名する段になり、「次回は東京在住のM君と春野君にお願いします。」と言われてしまった。うーーん。Mに図られたようだ。といいながらも「次回は新潟と東京の中間地点の軽井沢あたりでやりまーーす」という自分がいた。
次回というのはかならずしも来年ということではない。
2年後くらいがいいかなと思いつつ。9時過ぎの三次会は遠慮してホテルに帰ったのであった。

どこ行く?何する?夏休み!
Posted by : 春野おがわ | 思い出 | 07:57 | comments(0) | -| - |
最近撮った写真
C.ナイディック&大島文子ご夫妻とともに3月21日にパルテノン多摩であった、チャールズ・ナイディック氏と大島文子氏のコンサートのあとに開催されたレセプション時の写真です。

このコンサートにはクラ協から何人かの先生が聞きにこられていましたが、レセプションには、事務局のS先生と私だけだったので、一応クラ協を代表(?)して参加しました。
詳しい様子は以前のブログを参照ください。

ナイディックの超絶技巧や曲や楽器に対する造詣の深さに感心したコンサートでした。
本人は気さくな人で、レセプションに集まった多摩市民ととても気軽に話していました。

レセプションの終わりくらいにS先生のエーラーを吹いたりして和んだところでご夫妻といっしょに写真を撮ってもらいました。
なぜかいっしょに何人かの多摩市民が3人にシャッターを切っていましたが、私は別にプロではないので、何の意味もないとは思うのですが・・・。

今年の暑中見舞いの写真の第1候補ですね。
Posted by : 春野おがわ | 思い出 | 23:19 | comments(0) | -| - |
忘れられないアニメ!
やっぱり世代的に鉄腕アトムや鉄人28号などでしょうか。
アニメではなく漫画ですね。
鉄腕アトムは現在に至るまで、脈々と生きていますが、鉄人28号はそれほどではありません。リバイバルも何回かされているようですが。
でも最近なんかの商品のCMで使っていましたね。やっぱり懐かしい。

幼稚園のころ書きました、鉄人28号の絵を。古いお寺の幼稚園のお絵かきの時間に一生懸命書いたのを覚えて居ます。おなかのところのベルトの丸みを書くのが幼稚園児に難しいのですが、私はちゃんと書けたのが自慢でした。

我々の世代をターゲットとした昭和30年代の映画や漫画は、懐かしさもありこれからも心の琴線をふるわせて行くことでしょう。
Posted by : 春野おがわ | 思い出 | 01:32 | comments(0) | -| - |
この時期暑くなると思い出す フォートローダーレール
朝は結構涼しかったのが、午後どんどん温度が上がって今は暑いくらいだ。
不思議なもので、この時期暑くなると何年か前までよく行っていたフロリダを思い出す。

今朝雑誌のカリブ海クルーズ特集などを読んでいたせいもあるかもしれないが、そうでなくてもふと思い出すことがある。ここ数年はそんな感情はなかったのだが、さっき鮮明に思い出してきて懐かしくなった。

フォートローダーレールは、マイアミから北へ1時間くらいの小さな町なのだが、お金持ちの避寒地として有名だ。町中に運河が張り巡らされ、大きな別荘とメガクルーザーが運河毎に並んでいる。4月の終わりから5月はじめとはいえ、日中は夏のような暑さになるのでみんな半袖短パン姿である。
丁度その暑さが、今日の東京のようである。

町の中はこれといって何があるわけではないが、港からはカリブ海へのクルーズが出ており、それこそ10万トン以上のクルーズ船が発着している。最初にホテルの部屋のバルコニーからその姿と見たときは、思わずビルが一つ建ったかと思うくらいの大きさにびっくりした。
キーウエストへのツアーバスも出ており、マイアミで合流して延々と南に下がっていく。
時間はかかるが行ってみる価値は十分にある。

フロリダに行ったらやっぱり、あのカリビアンブルーの海で泳がないとうそになる。
私は短時間であるが、その経験をすることができた。日本にはないブルーなんだな。

この次は仕事ではなくプライベートでフロリダに行きたいものだ。カリブ海のクルーズでもよいような気がする。
と思いつつ、現実にはたまった原稿を書いている自分がいる。プールにでも行こうかな。
Posted by : 春野おがわ | 思い出 | 15:12 | comments(0) | -| - |
宮城まり子 私の履歴書
今、日経新聞で宮城まり子さんの履歴書の連載がされている。
日経新聞の中でこのコーナーは好きなところだ。

宮城まり子さんとは高校時代にお会いしている。

父が中心となって立ち上げた田舎のライオンズクラブの10周年記念式典に特別講演で来られた時だった。
すでにその2年前に父は会長職途中にして物故しており、式典に功労者遺族として父の遺影を抱いて最前列に学生服で列席したのを鮮明に覚えている。

話のなかでよく覚えているのは、戦後まもなく有楽町のガード下で靴磨きをしていた3人の男の子を引き取り、きちんと教育して医学部を卒業させたというくだりだった。
そして少し自慢げに「その子たちが今私の主治医なの! お母さんと呼んでくれるのです。」と言われていた。

まだ、私の履歴書ではその部分は出てこないが、楽しみである。
政財界の大物の履歴書もいいが、こういう人の履歴書がまたいいのである。

父のライオンズクラブのバッチは大切に私の机の奥に今でもしまってある。
Posted by : 春野おがわ | 思い出 | 00:46 | comments(1) | -| - |
飯田龍太氏のご逝去を悼む
PCの不調のため、ブログが遅れたが、俳人の飯田龍太氏が2月25日に86歳でご逝去された。
謹んで氏のご冥福をお祈りしたい。

飯田家と春野家は深い関係があった。
飯田龍太氏の父はよく知られていると思うが、大正から昭和にかけて活躍した俳人飯田蛇こつである。
龍太氏には弟がいたことはあまり知られていない。蛇こつの次男飯田数馬氏である。

太平洋戦争の始まる数年前、数馬氏も春野の父も学生として東京でいっしょに勉強をしていた。いつもいっしょに行動をする仲のよい親友だったらしい。
小学生のころ見た父の学生時代のアルバムに父のそばにいつも小柄な数馬氏が笑って写っているのを覚えている。千鳥ヶ淵のボート乗り場で、病院の玄関の車の前で・・・。

数馬氏のことは父も数回話してくれたし、母も父からよく聞かされたらしく父の亡くなったあともよく話してくれた。
学生当時、当然のことだが蛇こつは健在で、麹町区に立派なお屋敷があったとのことだ。
そこに住んでいた数馬氏のところに父はよく遊びに行ったらしい。

その後、父は応召、大陸で3年6ヶ月従軍して18年に除隊、そのあと東京に戻ることはなかった。故郷の新潟で戦後に数馬氏の死を知ったらしい。数馬氏は戦死ではなく病死だったとのことだ。戦後の混乱期、となりの県とは言えなかなか訪ねることができなかったらしいのだが、春野の小学生のころに飯田市に墓参りに行っている。

なぜわかるかというと「飯田数馬」と書かれたお墓の前で、父と龍太氏が写っているカラー写真が残っているからだ。龍太氏はほかの写真と同じように着物姿であった。
青い空と着物姿の龍太氏、背広姿の父がお墓の両側から手を伸ばしている。
いったい二人でどんな話をしたのだろうか?

機会があれば、龍太氏を訪問し、数馬氏のこと、父のことを聞きたかったがかなわぬこととなってしまった。

そんなことを思いながら、新聞記事を読んだのであった。
春野家の子孫に語り継ぎたい。
「いきいきと三月生る雲の奥」 飯田龍太

南無阿弥陀仏 合掌


Posted by : 春野おがわ | 思い出 | 00:57 | comments(0) | -| - |
級友とばったり
九段下駅のエスカレータに乗っているととなりの階段を歩いている人物がいる。
あれはT君ではないか?
大声で読んでみるとやはり大学時代の友人T君だった。
久しぶりである。前に会ったのは何年前だろうか。

この日はクライアントと人形町で食事をして水天宮前から神保町に出て新宿線に乗り換えるつもりっだのだが、本を読んでいるうちに九段下に来てしまい、あわてて降りたところだった。聞くとT君もいつもほとんど車通勤なのだが、たまたまこの日は電車だったとのこと、偶然が重なって再会できたわけだ。まさに奇遇というよりほかない。

丁度年賀状で、うちの近くに転居してきたことを知った直後だったので、同じ電車に乗り同級生談義で帰りの時間は瞬く間に過ぎてしまった。

楽しい一時だった。直前のクライアントとの会話の中で「簿記の素養は経営学の徒であるMBAにとって必須だ」と盛り上がっていたばかりだったのだ。
ちなみにT君と出会ったのは「簿記論」の授業でだった。そして満点で単位を取った私とちがいT君は追試を何回も受けてやっと「簿記論」の単位を取ったのだった。

偶然とはいえおもしろいことが重なるものだと強く感じた。

Posted by : 春野おがわ | 思い出 | 18:57 | comments(0) | trackbacks(2)| - |
救世軍 社会鍋
新宿西口に年末恒例の救世軍の社会鍋が出ていた。
社会鍋を見たら募金をすることにしている。
特に深い意味はないが、「救世軍」という形態のキリスト教が興味深いし、鍋の形の募金箱にも味がある。

昔の「さざえさん」に何回か救世軍が出てくるのをご存じだろうか?
テレビの「さざえさん」ではない。4コママンガの頃だ。
私がよく覚えているのは、駅か何かでさざえさんが滑って転んで、近くにいた駅員に猛烈に文句を言うとそのおとなしそうな駅員が一言「私は救世軍の者ですが・・・」と答えるくだりがある。

意味が分かるだろうか? 今以上に昔の救世軍は制服がいかめしく、詰め襟に軍帽をかぶった姿をそそっかしいさざえさんは駅員に間違えたものだ。

この戦後まもなくのころの「さざえさん」を亡くなった母は好きだった。新聞で読んだのではなく、NHKテレビの連続小説で「ま−ねちゃん」を見てからおもしろがって読んでいた。その単行本は中学時代に友人のK君から借りたものだった。K君のお父さんの蔵書だったと記憶している。

その母はもうこの世になく、K君の父上も今年85歳で亡くなったと喪中はがきに書いてあった。ともに戦中世代である。
救世軍の社会鍋がそんなことを思い出せてくれた。これも宗教の力なのかもしれない。
K君の父上のご冥福をお祈りしたい。 合掌
Posted by : 春野おがわ | 思い出 | 22:47 | comments(0) | trackbacks(2)| - |
子供ころの習い事は?
あんまり珍しくないでしょうが、ピアノを習っていました。
今だったら、男の子がピアノを習うのは全く珍しくないのでしょうが、その当時は茅葺き屋根の農家が多く、道も舗装されていなかった時分ですので男の子で習っているのはクラスで一人だけでした。
女の子もオルガンを習っていてもピアノを習っていた子は少なかったです。

でも、あんまり熱心ではなく、半分いやいや行っていました。
先生はお医者さんの奥さんで音大出のとてもきれいな方でした。
いまでも田舎ではおしゃれなレッスン室で、ぴかぴかに光るピアノを街の女の子といっしょにレッスンを受けたのを思い出します。

でも、あの経験がなければ中学校で吹奏楽部に入ることはなかったろうし、吹奏楽部に入らなければ今のクラリネットもなかったと思います。
そういう意味では、レッスンを薦めてくれた担任のN先生に感謝しています。

今では珍しくない男の子のピアノレッスンに息子は毎週通っています。
当時の私よりずっとうまいのは言うまでもありません。
でも彼は管楽器には興味はないようです。少し寂しいですが・・・。
Posted by : 春野おがわ | 思い出 | 00:28 | comments(0) | trackbacks(2)| - |
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